活動報告
印刷工業会 設立60周年記念未来の印刷産業アピール論文

【優秀賞】印刷の未来の未来

溝尻 誠 (1985年1月6日生)
大日本印刷株式会社 研究開発センター評価解析研究第1研究所

【印刷の未来の過去】
 宗教は人類の歴史の最も初期の段階から存在していた。その神髄を文字として書き起こした経典や聖書は宗教の核となっていた。しかしながら、それほどにありがたい文言でありながらも、誰にでも簡単にお目にかかれる訳ではなかったのが、印刷文明発生前である。信仰を深めるにも布教を施すにも、経典、聖書は大事な拠り所でありツールであるのだが、オリジナルと同一の物を自らの所有物にしたり、周りの人間に与えたりする際には手写しするしか方法がなかった。しかしながら、この方法は当然正確性と迅速性、大量頒布性に乏しかった。人々はありがたい文章が大量かつ簡便、迅速に複製され、頒布される未来が来ることを望んだに違いない。
 果たしてそのような未来は訪れた。遅くとも8世紀ごろまでに木版は発明された。手写しだった前時代とは比較にならないような迅速性と正確性を以って経典、聖書は世に出回った。欲せども手に入らなかったありがたい文言の数々が、多くの人々の手に渡った。人々は満足した。満足を得ると同時に次なる欲望の導火線に火が点いた。人々は一生一冊の読み物だけでなく、口頭や掲示で伝えられる日々刻々移ろいゆく情報についても、正確かつ迅速に書物に印刷され、頒布される未来を望んだ。  果たしてそのような未来は訪れた。活版刷り新聞が作成されるようになり、タイムリーな出来事がそれなりの即時性を以って、それなりに多くの人間に行き渡る様になったのである。先祖代々脈々と受け継がれる不変の情報価値だけで無く、生まれては流れ行く刹那的な情報価値さえも人々の間に広く出回るようになった。人類は新たな未来像を描いた。生きていくための精神の拠り所や、生活に不可欠な身の回りの情報にとどまらず、娯楽を目的とした物品さえもまた、製作者とその周りの人間に独占されるのではなく、満遍なく様々な立場の人間に行き渡ることを望んだ。
 果たしてそのような未来は訪れた。一例として、わが国では多色刷りの錦絵が開発され、市井の人々の眼と心を潤し生活に彩りを与えるなど、印刷は娯楽さえをも広く享受せしめるに至った。その後、産業革命が起こり、経済成長が起こりと、世は延々と工業化への道を進んだ。同時に、人々の未来像は、工業製品さえも印刷技術により安価且つ等品質に大量生産され、広く人々に行き渡る光景を映し始めた。
 果たしてそのような未来は訪れた。印刷技術は紙媒体の粋に留まることをやめた。紙面上につらつらと文字や絵を並べる作業の殻を破り、シャドウマスクや電気機器部材、住宅建材表層などの工業製品さえも作り出すことに成功した。ことテレビ分野への貢献は、紙媒体の印刷時代から続く、情報価値の拡散作業の精神に則ったものでもあった。印刷技術は近代文明の利器の恩恵さえも、人々に広くもたらすことを達成した。ことここに至っても人々の思い描く未来は足ることを知らず、さらなるハイテク技術さえも、印刷技術を用いれば大量生産、大量頒布が可能になるだろうという未来を夢見た。

【印刷の未来の現在】
 果たしてそのような未来は訪れた。印刷技術は刷る技術であり、すなわち小さい構造や微細な構造を基材上に積層して形成する技術である。それが故に、印刷技術はその歴史を通して今日の微細加工技術、薄膜塗工技術とも称されるものの形をとって結実することにもなった。カラーフィルタや各種光学フィルムをも印刷によって作製されるものとなり、液晶テレビの隆盛に寄与した。印刷技術の貢献は留まるところを知らず、医療品や食料品のパッケージ、バリアフィルム、プリント基板など、包装からディスプレイ、電子デバイスに至るまで、人類のめくるめく工業製品の進歩の傍らに居続けた。21世紀の声を聞くとともに、単調な工業化崇拝思想は薄まり始め、代わって環境と人類の調和が叫ばれるようになった。人類の築き上げる産業文明の柱に環境配慮型の新エネルギーやライフサイエンスが台頭してきたのである。このような時代のうねりを経て尚、かつての歴史に示されてきたが如く、印刷技術またこれらの新産業の発展、拡大に一役買うことを人類はその未来予想図に加えた。

【印刷の未来の未来】
 21世紀前半前半、果たしてそのような未来は訪れた。生体細胞組織や太陽光発電、二次電池といった、前世紀においては画期的な発明として羨望の眼差しを浴びていたインベンションさえも印刷技術の手によって、高品質大量生産され、人々に恵み与えられる時代となった。印刷は、既存の価値ある物品を遍く高品質大量生産できる時代となった。かくの如くに頂を極めたかに見える印刷の未来は、果たしてどこへ向かうというのか。
 これまで印刷が実現してきた人々の未来像を回顧すると、「価値の複製」と「価値の具現化」に集約される。
 価値の複製について見れば、ありがたい内容の書かれた本や、機能性フィルム、壁紙などは、印刷技術によって大量の等品質同一物が作られていようが、印刷技術の関与無く唯一無二の一品ものだけが存在していようが、単品単独で価値あるものである。その製品を介して、周りの人間との共有する事象が存在するわけではなく、その製品から得られる効果は単独で価値あるものである。したがって、印刷によって大量の複製が作られるに際しては、オリジナルの効能や価値がそのままに複製されることになる。さしずめ、ここでの印刷の役割は価値の複製である。
 しかしながら、紙幣は状況が異なる。紙幣が一枚存在しても価値は無いが、印刷によって人々に行き渡り、流通してこそ価値の出るものである。というのは、若干不正確で、実際は、それの前の段階で貨幣経済の概念が確立し、皆が共通に紙幣の価値を認識し、行使する土壌が作り上げられていることが前提として不可欠である。印刷技術によって作られた部材を多数搭載した携帯電話もまた、広く普及し、お互いに通信できるようになってこそ初めて本来の価値が生じてくるものである。そしてこれもまた、価値が生じる前提条件には通信インフラの普及が存在してこそ、である。紙幣にしろ、株券にしろ、通信機器にしろ、テレビにしろ、インフラ要素のあるものを実際にインフラたらしめている所に印刷の力があるのは間違いない。しかしながら、まずそのインフラ概念が先んじて確固とした地位を確立しているからこそ、印刷技術に活躍の場があるという構図はいずれの例においても同型である。すなわち、ここでの印刷の役割はインフラ構築に貢献することによる、そのインフラのコンセプトが元来保有する価値の具現化である。
 価値の複製と既存価値の具現化をし尽くせるようになった以上、為すべきことは「価値の創造」、すなわち、多くの人間が共有するからこそ価値が生じてくるものを、コンセプトの黎明段階から作り上げることだろう。その一例を考えるにあたって、先人の思い描いた印刷の未来の数々を振り返ってみるに、多くの場面において印刷技術、すなわちPrinting Technologyとともにあったのが、書籍や瓦版、テレビやスマートフォンらに絡んだ情報を扱う技術、すなわちInformation Technologyであった。ハード面、ソフト面ともこの両者はしばしば表裏一体の発展を遂げていた。この観点を踏まえ、ハード的にもソフト的にも今日最萌芽期にあり、次世代を見据えたPrinting TechnologyとInformation Technologyの融合の先に在り得るものとを挙げるとすれば、量子コンピューターを置いて他に無いだろう。量子コンピューターは、今日の半導体素子を用い、ノイマン方式を採っているコンピューターとは異なり、0または1の基底状態の重ね合わせとして存在する演算子を用いたコンピューターである。1ビットが0と1の2つの状態の特定確率での重ね合わせとなり、並列計算を行なうことができるため、従来のコンピューターの演算速度を遥かに越えた高速演算が可能となる。その速度は現存コンピューターで十億年かかる演算を数秒でやってのけると言われる。加えて、量子の観測不可能性を利用した不正な暗号解読の防止も可能である。ただ現在、理論的な構想や基礎実験での検証が為されているのみで、量子コンピューターがもたらす価値を具体的なコンセプトにできている状態にはほど遠い。問題として、ハード面では量子ビットに相当するデバイスの構築が困難を伴う点と演算能力を生かしきる優れたアルゴリズムがない点が挙げられる。
 前者に関していえば、目下のところレーザー冷却したイオンを用いるなどの大掛かりな設備が不可欠であり、後者の方については、現存の量子コンピューター用アルゴリズムは、因数分解等が得意なものの、今日のコンピューターが日々行なっている通常の演算は不得手な点が問題である。しかしながら、概念すら手の届かない高みに居ると考えられていたハードをデバイスの形にし、等品質大量生産に落とし込んできた人類のPrinting Technology の力を持ってすれば、量子ビットの高品質ハードの大量生産、大量頒布もその発展の外挿上にあると考えることに何ら無理は無い。さらに、デバイス生産を情報インフラと相見えさせて、価値の具現化を行ってきたInformation Technologyの力を持ってすれば、新しいコンピューターに適したアルゴリズムを拡充させ、量子コンピューターを大量頒布するに足るインフラとせしめる貢献もまた可能だろう。
 印刷が量子コンピューターインフラ確立の立役者となる未来、世紀末、そのような未来が訪れるに違いない。

 

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